バンクーバーでの仕事探し体験や教わった就活・職探しのコツ等、スキルワーカー移民のカナダ移住準備に役立つ情報を書き留めてます。


by workincanada

日系カナダ人強制収容所に関する手記

日系カナダ人の強制収容関係で興味深いのを見つけたので記録のために。

書名:「囚われの身」
    あるカナダ日系二世の戦時中日記
    第二次大戦中のカナダ日系人強制移動五十周年を記念して
著者:トム・サンドー・クワバラ
監修:穂谷野由美子
発行者:エドモントン日系人協会 「もしもし」編集部

1995年の自費出版です。
バンクーバーの図書館で発見
バンクーバーのヘイスティングパーク(現在PNEがあるところ)にある馬小屋に入れられてからオンタリオ州の別の収容所に移されて4年後に解放されるまでの手記。

カナダ人のロジックを知る意味でも興味深い本でした。



以下、言葉を補いつつ抜粋:

(註:一九四二年)
五月二十七日
...オタワ政府より高級司令官の来訪あり、(註:収容されている)二世の代表者が会見したが、カナダ生まれの我々二世は何処に行ってもカナダ人であり、外国人でない。事実上捕虜収容所に入れられていても、国家政治的プリズナー(囚人)であって、国際的プリズナーではないからジュネーブ会議の捕虜取り扱い条件とは何の関わり合いが無いと言うのだ。
 故に、捕虜のような服装をし、捕虜のように取り扱われていても、真の捕虜ではないと言うのだ。

...

七月四日
(註:収容所内でカナダ兵士による銃乱射事件が発生、日系人側が軍部に経緯等の釈明を求めたが、回答を拒否されたため、日系人側は釈明がなされるまで毎朝8時の点呼に応じる事を拒否することにした。)

...軍司令部から数人の高級士官がやって来て、我々に会見を申し込んだ。各営舎より三名ずつ主だった者を出し、十五名が軍司令部官達と入り口のガード・ハウスで会見した。
「間違って実弾を営舎内に撃ち込んだのは国際法により確かに我々軍の方の落ち度であったが、点呼とは何の係わりあいがない。もしも、汝等収容員が執拗に点呼を拒む場合は国際法軍規違反者として、各ハット・リーダーから順に拉致(らち)して、終身刑か或いは銃殺に処す」と背のべらぼうに高い、のっぺり顔した高級将校から威嚇的宣言を受けた。
其の報告を受けて、営廷に集まった我等収容員達は忽ち非難や怒号の声で蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、田中氏やリーダー格の者を中心に今後の方針について協議していると、例のづんぐりした下士官が皆の前にやって来て、
「これから、かっきり五分間だけ点呼まで時間を与える」と虚勢を張りながら、意味ありげに後方にぐるりと並んだ兵隊を見返りながら腕時計の嵌まった左手を上げた。斯様にして、軍部と我々収容員の間に不気味な睨み合いが始まった。
こちら、我々の方は衆議一致せず、何の決断も無いうちに五分の期限は容赦なく過ぎようとしていた。
その時である、...

続きに関心ある方は、、、是非この本を探し出して読んでください。

あと、監修者前書き全文(一九九五年四月時点で書かれてます):
市民権は属地主義と属人主義と言う二通りの方法で子供に与えられます。カナダは前者の方法を取っている国で、カナダで生まれた者は人種を問わずカナダ人としての市民権を持ちます。カナダはその先祖を辿ってゆくと、土着のインディアン以外は皆他所の国から移住してきた人達と、その子孫から成り立つ国であります。建国初期に大多数を占めたイギリス系、フランス系の間で、イギリス系が勢力を獲得し、イギリスの植民地として英領連邦国の一員となり、母国に忠誠を誓い、カナダをよりイギリス的な国に作り上げようとしました。彼らは権力を持ち、非イギリス系の人間達を排斥し、その攻撃は非白人種にはもっと過酷に向けられました。第二次大戦前、日英同盟があった間はカナダの政府の対日系政策はまだおだやかなものでありましたが、その同盟が破棄されるやいなや、一般人の対日系排斥は熾烈をきわめ、バンクーバーの日本人街では暴動が起こる程にエスカレートしていきました。ブリティッシュ・コロンビア(BC)州出身の政治家はその風潮を利用し、排日感情を煽り、第二次大戦勃発後、日本海軍の真珠湾攻撃を契機に、カナダ太平洋沿岸百マイルを防衛領域とし、日本生まれ、カナダ生まれの区別なくすべての日系人を適性外国人として、強制立ち退きをさせました。総勢二万人以上の人達が、あるいは収容所に、あるいは他州へと移つされて行きました。日本から遠く離れた土地で日本人の血ゆえにもたらされた悲劇でした。終戦後も引き続き四年間、つまり一九四九年まで日系人の自由を束縛したこのカナダ政府の日系人に対する処置は消しがたい傷を日系人にもたらし、その後遺症は現在も至る所に見られます。そこから完全に立ち直る日はいつ来るのでしょうか。言葉で言い表すことも不可能な打撃をうけた日系カナダ人が精神的に健全な姿になる日はいつ来るのでしょうか。
幼くして母親を失い、日本へ送られた桑原少年は日本の越後で祖母に育てられ、戦前の軍国主義色の強い教育を受けました。父親の再婚により第二次大戦開戦の四年前にカナダにもどった時は十五才で、四年後には強制移動の憂き目に会い、父母と引きはなされることに反対したために、二十才の若さで収容所に入れられ、そこで四年の歳月を送りました。其の間に収容所で克明に書き続けた日記はその歴史的出来事の記録として貴重な資料となるでしょう。日本で教育を受けたため、日本語が彼の第一語であり、日本語で書かれた日記は、数少ない日系カナダ人の当時の日本語の記録としても貴重なものであります。少年から青年期にかかる時期をこのように過ごした桑原(サンドウ)氏は、この日記の方々でもわかるように、道端の花や木に目をとめ、空を見上げるやさしい気持ちの持ち主です。そのような青年に囚人服を着せ、囲いの中に入れ、自由を奪う政治とその元をなす人種偏見の過酷さ。力まない彼の文体の底には計り知れない悲しみが流れています。
この日記はスーツケースの底に五十年近くも眠っておりました。後の人達のために、特に日本の人達のためにぜひとも活字にして残すことをお進めしました。全カナダ日系人協会のグラントを受けることが出来、このような形にして残すことが出来ることは幸いです。五十年前に書かれた文体を出来るだけ保つように心がけました。
一九八八年には全カナダ日系人協会を中心とする日系人の長年の戦いの努力が報いられ、カナダ政府は戦時中のカナダ政府の日系人の扱いに対し謝罪し、一九四二年から一九四九年の間にカナダに住んでいた日系人一人一人に謝罪の意を表して二万一千ドルを支払い、また人種関係基金設立の資金を用意することを誓いました。現在はその基金はまだ設立されていませんが、一九九五年には、また全カナダ日系人協会の努力で戦争直後強制送還されて日本へ行った四百人以上の人達とその子供達で、カナダに帰ることが出来なかった人達にも保証金を支払うことに政府は同意しました。」

無断で写してますが、もし問題あれば削除いたしますので。
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by workincanada | 2005-01-09 12:11 | カナダ多文化主義の側面